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「掛軸 小茂田青樹」
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掛軸 小茂田青樹

尾形乾山

掛軸 小茂田青樹は、1891年生まれです。西洋の技術を取り入れた作風と、その情緒的な雰囲気を出す作品から詩情の画家と呼ばれていました。作品として非常に有名なのが「虫魚画巻」で、妖艶的な雰囲気だけでなくその繊細な筆遣いなども高く評価されています。小茂田青樹は、埼玉県の川越市に生まれます。呉服商を営んでいた家庭に生まれ、幼少の頃からその美的センスを養っていたとしても知られています。都会に憧れていた小茂田青樹だけに、17歳の頃には上京を果たします。上京した時には、鉄路などが田舎と東京を結んでいなかったので、結果的に寄宿先を探す事になります。そして、その寄宿先というのが、あの松本楓湖の隣家だったのです。運命的な出会いもあり、楓湖の経営している「安雅堂画塾」に入門することとなります。速水御舟も同時期に入門を果たしており、結果的に生涯のライバルとして関係を続けて行く事になります。絵画に関しては当然素人であった小茂田青樹ですが、その持ち前のセンスを最大限に活かして、絵画を研磨。ついに、1913年には第13回巽画会展に出品をした作品が、原富太郎に買い上げられます。そして、それ以降、原富太郎がパトロンとなり、結果的に長い間支援を受けることとなります。その支援もあり、2年後に出品することとなった、再興院展での「小泉夜雨」が初入選を果たします。これから、画家としての最高の活躍を、と期待された矢先、何と肺結核となってしまいます。しかし、そのような体であっても、創作の手を休める事は無く、日々制作を続けます。病気をはねのけるその活動降りは周囲も驚く程で、第8回再興院展には洋画的な手法を取り入れる、小茂田青樹らしい作品である「出雲江角港」を出品。その後には、横山大観らに推挙され日本美術院の同人になる快挙を成し遂げます。1929年には、杉立社を組織したり、武蔵野美術大学などでの教鞭を取ったりと、美術界へ高く貢献を続ける事となります。結果的に、41歳という若さでこの世を去りますが、小茂田青樹の残した芸術は一生涯忘れ去られる事は無いでしょう。彼が追いかけた夢は、まだまだ語り継がれているのですから。